~ 国語が苦手なお子さんをお持ちの
お母さん、お父さんへ ~
国語力は「読む」、「書く」、「聞く」、「話す」の4つの要素から主に構成されています。
国語問題の解答作成にあたっては、このうち「読む」読解力と「書く」記述力が試されます。 「聞く」力や「話す」力は親子、友人間の会話や遣り取りで、また学校や塾、個別指導の授業における 聞き取りや自己表現の形で発揮されます。 とても大事な要素ではありますが、ここでは受験国語の問題解答力の向上という喫緊のテーマに沿って、 主に「読む」ことを中心に話を進めていきたいと思います。
読めれば解答が書ける、読めれば説明が聞けるのです。
国語問題の解答作業の前に立ち塞がる壁、厄介な難敵が問題文。 物語文、随筆文などの文学的文章、説明文や論説(評論)文などの説明的文章が所構わずいきなり立ち現れます。 文章のジャンルの好き嫌いを言ってみても始まらない。 眼前の問題文にどう向き合い、立ち向かうか、もう逃げ場はありません。 小躍りした、或いは沈黙した文字のお化けの来襲に見えるお子さんもおありでしょうが、 ここでしっかりと正視して文字や文の正体を見極めなければ、 いつまでたっても苦手意識の呪縛を解くことはできません。 苦手意識というものは、持ちようによっては低迷する教科の学習から逃避するための格好の口実にもなり得るので、 これを払拭するように学習者本人にプレッシャーをかけても逆効果になり兼ねません。 読まなければいけない、読めなければ辛いという強迫観念から解放すること。 この強迫観念が何から生み出されるのか、これを解明することが国語力向上のための第一歩です。 文章の内容を読み取るという行為は書かれてある通りに確認する作業ですから、 確認できているかいないかは読んでいる当人には少なくとも認識できる。 そうであれば、確認できた情報量が多いか少ないかで読解のレベルが決まる訳であり、 文章次第で読解力は揺れ動くことになります。 苦手意識は、この読解力の揺れ動きを自覚しないまま、たまたま読み取れなかった情報が多いというだけで、 読解力不足を常に固定したものと錯覚することから始まります。 この錯覚を取り除き、苦手意識を薄めるためにも、文章というものは様々な情報の寄せ集めに過ぎないことを 教えなければなりません。 しかし、単なる寄せ集めに終わらないところが、文章の文章たる所以なのであります。 ある情報が既知のものなのか未知のものなのかを読みながら確認できれば、たとえばらばらの既知の知識でも、 それらをつなぎ合わせることで、ある一貫した意味の脈絡は浮かんでくる。 意味のつながりを持った文脈として意識できるということです。 文章というものは雑多なものをひとところに集めただけでは終わらない。 必ず「論理」という思考の「つながり」に帰着します。 「論理」とは「つながり」です。 それを見つけることが論理的に読むということです。 「つながり」だけが設問を解く手がかりと言ってもよい。 この「つながり」を意識し、確認し、理解することが、文章読解の最大のポイントなのです。 文章が読めないということは、前述した「つながり」を意識していないか、 或いは意識したとしても「つながらない」かのどちらか、もしくは両方ということです。 |
まず最初に、物語文を例にとりましょうか。
物語文が読めないというお子さんはあまりいない。 むしろ物語文は読んでいて楽しいが、説明文は嫌いだという声が圧倒的に多い。 それはそうでしょう。 読めれば誰だって楽しいはずです。 つまり、文章が読めるか読めないかで国語好きか国語嫌いに分かれてしまう。 その意味で「読める」か「読めない」かは、国語力の形成においては最も重要な分岐点になる。 要するに、「つながる」か「つながらない」かがすべてなのです。
物語文は「つながる」のです。
物語文は「つながる」と言いました。 当然です。
物語はストーリーであり、筋書きがある。
展開があり、流れがある。 つまり、物語は「つながり」そのものです。 この「つながり」をどうして子供は読めるのか。 簡単だからです。 フィクションである物語の設定場面がたとえ仮想空間、異空間であったとしても、 子供たちの生活空間や環境から隔絶した異次元の世界の出来事であるはずがない。 児童文学は学校空間や家庭空間の枠組みの中や延長線上で出来上がっているものですから、 子供が読んで容易に類推、想像できるものでなければならない。 そうでなければ共感や教訓は得られません。 物語のテーマ、メッセージは共感と共有です。 登場人物と読み手との間の、また読み手どうしの、或いは書き手と読み手との連帯感。 これまた「つながり」であり、読めないわけがありません。 |
では、説明文や論説文ではどうでしょう。
文章とは「つながり」でした。 「つながり」とは「論理」でした。 物語文の「論理」とは共感と共有と連帯でした。 「教育空間」における限界でもあり、可能性でもあるのでしょう。 子供たちが嫌う説明的文章は、 大人の「論理」=一般通念に子供を引き込むための知性的、 理性的な装置として提供されます。 知性も理性も大人のものだと、大人は考えます。 大人の「論理」は「抽象化」です。 抽象的な言葉を多用します。 だから子供には分かりにくい。 ここでは関係のなさそうな随筆文だって大人の作文ですから、抽象語も自己満足語も使いたい放題。 (そもそも随筆は大人の感慨を述べたものですから、はじめから子供を読者として想定していません。) 文章が読めないというのは、言葉の意味や使われ方が心象として「つながらない」ということです。
それなら、どうしたら「つながる」のか。
読めない者に言葉を覚えろとか、語彙を増やせとか言うのは簡単です。 しかし、それがすぐ出来れば苦労はない。 そのうち読めるようになるだの、時間が解決するだのと言われても、受験生に時間はありません。 満足な読み取りが出来なくても、何とか大意は掴みたい。 これが大方の受験生の本音でしょう。 どうしたらいいか。 読めないなりに最低限「マクロなつながり」を掴めないものか。 説明的文章は「具体」から「抽象」へ、 「抽象」から「具体」へと繰り返しながら進みます。 「具体」は「例」であり、 「抽象」は「まとめ」になります。 具体的な事例の羅列に終わることも、抽象的な表現に終始することもありません。 そもそも、読み手に理解を求めるのが文章の目的ですから、読み手が納得するような表現でなくてはなりません。 「抽象」はそのままでは説得力がないし、 「具体」だけでは文章の意図も趣旨も伝わらない。 この二つはセットになってはじめて文章らしくなる。 書き手の目的達成となります。 それでは読み手の「抽象」理解力が足りない場合にはどう読んだらいいのか。 いよいよ結論です。 分からないところは飛ばす。 飛ばしても「具体」が残っています。 「具体」も「抽象」も 実は同じ意味の言い換え関係に他なりません。 内容的にはイコールなのです。 だからこそ、具体例の後に「このように・要するに・つまり」といった 「まとめ」の「抽象」的な言い換えがくるのです。 もっと言いましょうか。 文章は「言い換え」です。 「言い換え」は「つながり」です。 「つながり」は「論理」でした。 文章=「言い換え」=「つながり」 =「論理」の構造が理解できれば、 分からない言葉や表現の「言い換え」部分が見つかり、 めでたく「マクロなつながり」を読み取ることができる。 引用も比喩も具体例と同じく「言い換え」です。 対比関係も二項対立も、反対の意味の「言い換え」であり、 「つながり」です。 |
さあ、もう文章が読めないと嘆くことはありません。
文章内容の意味は必ず「つながる」のです。 是非、この「つながり」を意識して読んでみてください。 国語力はすべての学習につながり、学力を根底で支える大きな財産なのです。 |