「髙橋式受験国語的こころ」

~ 解法のお約束とルール ~

 物語・小説は事実を描くものではありません。事実と似たもの、事実らしきものを想定し、それに仮託して真実を描くものです。真実とは人の心の中にあるものですが、各人各様のバラバラの心を捉えたところで「人それぞれだよね」で終わってしまう。共感という唯一の武器で共通点を洗い出し、一般性・普遍性を抽出しなければならない。それが文学です。

 文学的文章の問題は、この一般的・普遍的な心の有り様を読み手に発見させ、客観性を装って心の在り処を特定させることで成立します。つまり、心の発見を理屈で後付けするわけです。この理屈が正解特定の根拠ですから、逆説的に言いますと、心を発見しようとすれば、感情移入をしてはならないということです。

 翻って、説明的文章つまり説明文・論説文ですが、説明文は客観的・科学的事実に基づき、論点や観点の説明に終始し、そこに主観的な論評や意見の入り込む余地はありません。
 論説文は違います。テーマを掲げ、客観的事実に後押しされ、意見や主義・主張を展開し、読み手の理解や納得を得ようとするものです。簡単に言うと説得文ですね。だから論理的なのです。

 紙幅に限りがありますので、端的に申します。説明的文章の解法の鍵の一つは「は」です。えっ、何? はい、助詞の「は」です。論説文には必ず「~ということ(もの)は」=「~というのは」=「~とは」=「~は」という表現が頻出します。「~は」と言った瞬間、語り手や書き手は逃げも隠れもできません。「は」の後には説明責任と結論が待っているからです。潔い、しかし怖い言葉です。日本語で最も怖い言葉です。「あなたは」と言われた瞬間、ドキッとします。何を言われるんだろうと。

~「国語力とは言い換え力である」と知ること ~

 設問によくある「どういうこと(どのようなこと)問題」「説明しているものは(説明しなさい)問題」は、すべて言い換え問題です。「言い換え問題」であるからには、同義語・類義語の知識の有無が正解特定の成否を分けます。たとえば、動詞の場合、「弱気になる」という言葉を言い換えますと、「気後れする=尻込みする=ひるむ=たじろぐ=おじける=臆する」になりますし、形容詞なら、「もどかしい=はがゆい=じれったい=いらだたしい」が「思うようにならず、いらつく感じ」になります。

 とにかく、語彙力とは言い換え力です。表現とは言い換えです。もっと言えば、国語問題はすべて「言い換え問題」です。記述問題でも、選択肢識別問題でも、本文の趣旨を部分的に取り出して言い換えただけです。

~「国語的な、余りに国語的な」~

 最後に、国語授業の準備に関する大きな誤解を解く必要があります。塾でも家庭教師でも、国語授業の準備にかかる時間は相当の負担になるはずです。負担でないとするなら、それは同じ教材を何度も使い回して常用化していることになります。国語以外の教科の場合、指導内容は類題の解説になりますから、集積された類題を何年も見てきた、ある程度の経験を積んだ指導者であれば、類題を見せられれば即座にあるいは短時間で解答を導き出すことが可能と考えられます。

 ところが国語の場合、漢字や知識は別として類題そのものが存在しません。初出、初見の文章が大前提であり、通読後は常に一問一問を実際に解いてから授業プランや指導手順を策定しなければなりません。私(代表)などの過去問指導においては、事前に授業時間(2時間)に相当する準備時間をかけなければ授業は出来ません。いきなりその場で教えてくださいと言われても絶対に不可能です。もし出来るとしたら、それは神業であって人間業ではありません。

 国語の過去問指導が楽になることは物理的にあり得ないことなのです。たとえ何十年教えていてもです。もしそれでも楽だという者がいたら、過去問の解答や解説を丸写しして適当にコメントしているだけなのです。それも、過去問出版業者の外部委託(アウトソーシング)のものをです。解答を公表しない学校(たとえば慶應)だと、業者間で答えが食い違うことはざらにあります。ですから、国語の過去問指導者は、他者の真似をせず、準備万端整って臨み、最後は自分の技量と経験を信じて答えを出すしかないのです。でも、算数や理科の家庭教師が楽そうで羨ましいとは思いません。これが国語という教科の宿命であり、本質であるからです。
 いつまでも休めない国語指導。ああ、今日も時間がかかりそう…。