誰も言わない、だから「家庭教師会・門」の、ひとり国語

~ 知らなすぎる「点取りゲームのルール」~

 初っ端から身も蓋もない言い方で恐縮ですが、受験は所詮点取りゲームです。ゲームである以上、ルールを知らなければゲームに参加することはできません。① 文章読解には眼球運動に伴う視線移動距離と所要時間を体感計測しなければならないという認知ルールがあり、② 設問の解法手順には型通りの用語の定義や言い換えに制約される服従ルールがあり、③ 記述問題の解答作成には「始めに結論ありき」で書き出しをスムーズに行う型ルールがあります。

◆ ルールその1
 国語という教科は、教材もテスト問題もタテ書きタテ読みで構成されています。他教科はヨコ書きヨコ読み。当たり前ですね。でも、これが本質的な違いであり、違うからこその根本ルールなのです。人間の目は横に直線上に並んでいて横に視野が広いから、ヨコ読みの場合眼球をあまり動かさなくても読みやすく、1行分の文字数など殆ど瞬時に捕捉でき、2行分だって短時間で可能です。

 ところがタテ読みはそうはいかない。我々の目はタテに弱いんですね。だから、上から下へ読んで次の行へは下から上に戻り、また下へと読み下すことが繰り返され、目まぐるしく眼球を動かさなくてはなりません。眼球の往復運動量と視線の移動距離とが他教科の何倍になるか分からない。おまけに本文一読後も、設問と本文とを行ったり来たり。目が疲れないほうがおかしいし、視線移動距離を合計すると他教科の何十倍もの負担になるかもしれません。目が疲れない人がいたら何も読んでいないことになりますね。

 国語指導は観察が欠かせません。どこを読んでいるのか、何を考えているのかいないのか、視線の動きを見ていれば容易に分かります。直接指導が何より大事なのはこの点です。私髙橋が漢字・知識以外宿題を出さないのはこのためです。速読と設問処理にかかる時間配分の問題は最後まで残りますが、個人差のある通読速度や読解の質については、視線の伴走と誘導とで改善を図ります。

◆ ルールその2
 設問は絶対命令です。設問の指示は絶対です。絶対命令に無条件に従うことで正解へと誘導してくれる服従ルール。その際設問の用語の定義を知らなければ致命的となります。

 例えば「具体的」とは個別の事例や現象が実際に存在することであり、「部分」は一文中の部分だけでなく、連続する複数の文であったり、段落そのものを部分として求めるケースもあります。「語」は1語を意味し、1語=1単語=1品詞であり、「動作」は身振り=所作=しぐさのことで、具体的な体の動きがなければならず、表情=顔つき=顔色を含みません。「何」と問われたら名詞で答えるし、「どういう(どのような)こと」とか「説明」とかいう言葉があれば言い換えを探します。

 このような設問の用語ルールはいくつもあるので、過去問演習を通して理解と認識を徹底させなければなりません。

◆ ルールその3
 記述問題は型ルールです。「始めに結論ありき」で文末表現を決定することが解答文の作成方法になります。記述問題には主に2種類あって、「抜き出し同然問題」と「説明・要約問題」とがそれです。前者はすでに説明済みの結論表現を探し、指定された字数内に収まるよう枝葉の部分を取り除き表現を整えるもの。後者は文脈から解答作成に必要な材料を見つけて組み立てたり、なるべくコピペをしないで自分で言い換えたりして長めの文にまとめるもの。こちらが前者より高度な作業になりますから、記述対策としてはメインになります。

 物語文の「気持ち問題」であれば文末の心情語を決める。思いつかなければ「~という気持ち」に言い換える。説明問題も文末表現が違うだけで、共通作業は文末の結論の理由を上に乗っけること。結論部分を決めてから理由部分を書き出すというわけです。「始めに結論ありき」だから自然と理由が書き出せるのです。始めから頭も手も固まって書き出せないのはこれができていないから。型にはめて書き出すことが大事なのです。設問の意図を察した時点で結論を予測する。それができれば苦労はないと言われそうですが、これが必要だから訓練するのです。この結論ルールを早く覚えましょう。
~「始めに結論ありき」をもう一度 ~

 国語力を決定づけるものは何でしょうか。いくつかの要素が考えられますが、重要な一つに類推力があります。あらゆる文章には趣旨や意図があり、何を書こうとしているのか、何を言わんとしているのかという意図に沿った文章設計が前提としてあります。「始めに結論ありき」なのです。最初から結論が決まっているのなら、早めにそれに気づいてさっさと読み終えればよい。これが気づく力、見抜く力です。文章設計の輪郭を即座に感じ取って理解したと思える直感力と言ってもよいでしょう。

 文章設計は文章の種類、ジャンルによって違いがあります。このジャンル別の性質の違いを理解しないと、直感がそれて錯覚を生みます。物語・小説・随筆のような文学的・心理的文章であれば心情語の、説明文・論説文のような説明的・論理的文章なら抽象語(一般化しなければならないから)の理解と識別が、読解の深さに大きく影響します。これらの心情語や抽象語は、現象や事柄ごとに使い分けられた表現を通して文章の中で覚えていきます。とは言ってもすぐには無理で、同じジャンルの文章に数多く触れることで初めて類似性や共通点に気づき、類推という有力な手段、強力な武器を手にすることができるのです。

 類推によって新たに気づき獲得した心情語や抽象語がまた類推を呼んで語彙を広げます。語彙力が瞬時の判断を助け直感力をはぐくむ。そう、類推力は語彙力へ、語彙力は直感力へ、直感力はまた類推力へと循環して進化していきます。類推から直感への流れの中で結論をとらえる。そして、いつでも「始めに結論ありき」に立ち返るのです。
~「論感」に鈍感、反感では困る? ~

 「絶対音感」の持ち主が世の中にどれほどいるのか知りませんが、その対極にある「音痴」は確実に身近に存在します。この「絶対音感」をもじった「絶対論感」という造語を使用している人がいて、語の定義は不明ですが、「論痴」という言葉も使われており、これはややバイアスがかかった差別感ありの言い方で、語呂もしっくりしない。「論痴」はともかく、「論感」はどうでしょう。使えそうですかね。論理にシンクロする直感力なら「論感」と言えそうですが。

 さて、論理的思考はどの教科においても必要不可欠なものです。論理は根拠から生まれた文脈であり、根拠なくして論理は成立しません。国語学習は根拠の特定、理由探しが命といえます。文章読解も、設問処理も、解答作成も、すべて根拠の特定が求められます。根拠の特定は説明によってなされます。文脈をたどって説明がつくかつかないかで、論理の整合性が判定されます。論理の整合性は誰が見ても聞いても納得できるものです。国語指導は誰もが納得する説明力を持たなくてはなりません。これが説明能力であり、国語指導はこの論理の説明の繰り返しです。

 説明を聞くのは耳です。人の話を素直に聞けるかどうか。素直に聞ける相手なのか。ここで相性が問題になります。親子でも相性があります。愛情は関係ありません。親子の愛情は不変です。しかし、相性は時と場所と場合とで変化します。つまりTPO次第ですね。もっと言えば、自分の都合次第でどうにでも変わるものです。相性が変われば聞く耳も変わります。同じ論理でも中身が違って聞こえます。もともと論理は理屈っぽいんです。しかも屁理屈になりやすい。だから親子の場合、感情が入るとすぐ喧嘩になる。しかし、親子では感情論が先立って鬱陶しくなり対立しても、他人にはいい顔をして素直になれるのも子供にとっては自然なことです。

 他人の登場と他人の視点は変化をもたらします。客観的な視点と視野は合理性を持ち込んで論理志向を促します。素直な耳は素直な論理に共感します。共感は相手との信頼関係を築きます。共感と信頼は一体感を生んで、共に受験を闘うモチベーションを高めます。これまでの国語学習の不都合な問題を解決すべく、山ほどある不合理や理不尽な常識のウソの数々を、素直な耳と論理で打ち破りましょう。家庭教師の役割はこんなところにもあるのです。
~ 漢字は「類推」で読んでみよう ~

 入試頻出漢字の共通点に、音・訓それぞれに複数の読み方があることを知っていれば、それらの漢字をピックアップする作業から始める。漢字学習は読みから入るべきなのです。市販の漢字問題集なら1日で読めてしまう。読めるだけでも自信がつく。それからが書き取りです。しかも量より質。何十回書こうが手が覚えてくれるわけもなし。漢字テストで書けなかった漢字を罰として十回ずつ書かされた子が、書きなぐった挙句漢字嫌いになってしまったのを見たら、本当に悲しくて涙が出ます。愚の骨頂ここに極まれりです。  漢字の八割は形声文字(六書の一つ)です。形は意符で偏(へん)や旁(つくり)や冠(かんむり)などの同類グループの部首に属するもの。声は音符で経・軽・径・茎などの 圣=巠(ケイ)の部分。類似点・共通点・規則性を見つけて類推するのは言語学習のキモであり基本のキです。類推能力と学力は比例します。先に述べたように、類推で他を推し量ることこそ学習の原点であり本質であります。

   もう一例。京・生・丁・明・令などの音は、「ケイ・セイ・テイ・メイ・レイ」の漢音と、「キョウ・ショウ・チョウ・ミョウ・リョウ」の呉音と二種類(唐音を除く)あります。漢音(日本漢字音=音読みの一つで7・8世紀頃に唐から将来)と呉音(漢音以前に中国南方から伝来)のそれぞれの共通点はもうお分かりですよね。

 ① 漢字は読みから入る。② 音・訓の区別をつける。③ 音・訓別に複数の読み方を覚える。④ 音読みの規則性(類似点・共通点の特定)を見つけて熟語の類推読みをする。⑤ 二字熟語の一字でも読めて意味が分かれば熟語の意味を類推してみる。
 こうした作業が漢字力を高め、ひいては類推力を高めて学力を引き上げます。
~ 十点は「ジュッテン」? とんでもない、「ジッテン」ですよ ~

 日本漢字音=音読みの仮名遣いを字音仮名遣いと言います。字音仮名遣いは歴史的仮名遣いで書きます。例えばフはウと読み、イ段の音とフはカ行イ段なら「キフ→キウ→キュウ」と拗音に変化します。「十」は「ジフ→ジウ→ジュウ」です。「十」は二つの音を持ちます。「ジフとジッ」です。「十分」は「ジュウブン」と「ジップン」で、「十」に「ジュッ」の音はありません。

 これとは別に、ア段の音とフは「アフ→アウ→オウ→オー」と変化して読みます。「雑」は「ザフ→ザウ→ゾウ→ゾー」となり、二つの音ザフ・ザツ(雑巾・複雑)をもっています。「合」はガフ・ガッ(合格・合点)、「納」はナフ・ナッ(納税・納得)です。「十」の仲間で「立」はリフ・リツ(建立・成立)、「執」はシフ・シツ(執念・執事)、「入」はニフ・ニッ(入国・入唐)等々いくらでもあります。

 これらの字の共通点はお分かりですね。これらは中古漢語のp入声(ニッショウ)という語です。日本に伝来して「十」はジフ(現在の発音ジュウ→ジュー)とジッの両様の音を持つに至りました。「フ」と「ツ」の両音を持つp入声仲間の漢字を探すのも面白いですよ。「立春」をリュッシュンと言ったり、「執行」をシュッコウと言ったり、立教大学をリュッキョウと言ったりする人はいません。「十本」はジュッポンではなくジッポン、「十回」はジュッカイではなくジッカイに決まっています。

 類推という作業は、くどいようですがすべての学習に共通します。規則性を見つけて類似点・共通点に気づき、もっともっと類推能力を高め、国語力を発展させていってほしいと思います。


ここまでお読みくださった方には心から感謝申し上げます。 ありがとうございます。
多少なりとも共感を覚えていただけたら幸いです。
国語のご相談がございましたら髙橋までお寄せください。
どのようなご依頼もお引き受けいたします。

「家庭教師会・門」代表 髙橋光洋



「よき人と漕ぎ出でましかばいくばくか言海原(ことうなばら)のうれしからまし」

(万葉集・八「わが背子と二人見ませばいくばくかこの降る雪のうれしからまし」

から本歌取り)